プロフィール

昭和30年8月11日 兵庫県明石市西大久保にて出生
以降各地を点々とする。
乳児期に、森永の砒素入りミルクを飲用し今となっては因果関係は不明だが、中学時代まで病気の連続で育つ。

小学校前期は福岡市。小学校後期から高校までは北九州。大学は福岡。
中学時代は生徒会活動を行い、当時学校主催で行われていた運動会や、まだ高校からしか開催されていなかった文化祭を生徒会主催で行う。またPTAや職員会議に働きかけ北九州初の男子生徒の坊主頭から長髪化を実現。
高校時代は新聞部・写真部・フォークソング部の3つを掛け持ちし、活発だった学生運動をやっていた先輩方と学生運動のあり方について議論、学校新聞にも学生運動のあり方に関して疑問を提示。時にはゲバ棒に囲まれながらという怖い場面もあった。
大学時代は、一年生の時体育会系の激しい入部勧誘から逃れるため、友人と合気道愛好会を設立し、難を逃れる。4年制大学であったが3年で必要単位数を履修し終わり、4年生では大学にいくのは週一日で後は2年生から始めていた電気屋のアルバイトに没頭する。

卒業後、当時福岡で大手の本屋に就職。学校や図書館、官公庁などでの営業。
5年くらいして、そのころ行っていた居酒屋の経営者から「今からの居酒屋も営業力が必要だ」と誘われ転職。2年ほど続けたが父親の退職を迎え、実家がある佐賀へ戻る。この間学んだことはとても大きかった。この居酒屋にいる間で仲間やお客さんなどたくさんの人に出会う。それまでカウンターの外側にいた私は今度は内側に移ることでまったく別の世界が見えてきた。バリバリの社長が愚是ごとを言ったり、消防署のレスキューチームが大騒ぎしたりでもこのレスキューの人たちどんなに酔ってしまっても、鍋物を食べた後卓上コンロのガスの元栓(当時はまだカセットコンロでなかったのです)はすべて閉じて帰っていました。経営者の先輩の議員さんや秘書さんも時々お見えになって、税理士や塾経営者、果ては議員になれと言うお誘いまで受けしたがお断りした。自分が知らなかった人生をたくさん見せてもらった。このころから、自分の生きる道ってなんだろうという「自分探し」が始まったように思う。

佐賀に戻ってからも、自分探しは続き、眼鏡屋やたこ焼き屋なども経験してみる。
たこ焼屋をやっているときよく学校帰りの小学生が買いに来てくれた。しかし私はそれが気に入らず、家に帰ってランドセルを置いて来ないと売らないと言い続け、赤字になる。また、このころ経コンの真似事のようなこともやり新規出店1店経営改善3店舗ほどをやってうまくいくのだが、何かしっくりせずやめる。
眼鏡屋当時、佐賀の郡部を訪販していて、仲良くなった農家や漁師さんから農薬を使った農産物や養殖物の怖さを聞かされ、食べ物に恐怖を持つ時期に入る居酒屋で出していた調理品が頭をよぎる。栄養補助食品との出会いをきっかけに食の安全性や、現代医療また戦後教育や経済の危うさを日本各地のたくさんの人から学ぶ。今から約く20年前「食育」という言葉はまだほとんど使われていなかった。このときやっと自分が見つかったような気がした。
そのようなことをしながら、間で結婚し福岡・別府へ移り子供を持って、平成13年現在の居住地「嬉野」にやってくる。

この地では何故かしら「町づくり」がキーワードとなる。
見知らぬ地へやって来たので知人を作るために参加した町づくり勉強会。町づくりの活性化のために作ることになったNPO法人その立ち上げの責任者になった最中に脳出血を起こし左半身麻痺。平成15年暮れのこと。しかし、平成16年秋には新しいイベントをスタートさせることは、既定の路線だったので、リハビリもそこそこに右手右足を頼りに活動を継続。このとき初めて体に障害を持つことが如何に大変なことかと気づく。五体満足だったときには気づかなかったたくさんの場面で不自由さ不便さを感じるようになり。新しい世界を感じうれしかった。
その後平成19年障害者や、高齢者、外国人に少しでも旅を楽しんでもらおうと日本で二番目となるバリアフリーツアーセンターを設立する。
平成22年 私の中でもうひとつステップをあげ、より細やかな活動をしたく個人活動を開始する。

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